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描きかけの油絵
回復への道のり
『描きかけの油彩画』を読んでくれた会社の同僚が「池田さん、次はいつ出すの?」と聞いてきた。アルコール依存症とは無縁の彼女らである。戸惑い半分、興味をもって読んでくれた んだという嬉しさ半分で、あの冊子を書きはじめたいきさつを話し、「描きかけ」を詫びながら、でついでに何故次のものに興味をもってくれたのか尋ねる。すると、 「だって、あのままじゃ、そんなにもひどい飲み方をしてたっていう池田さんが、何でお酒がやめられたのかわからないもの」という素朴な疑問であった。 そう真正面から言われても私だって困る。これが私がお酒を断つことができた理由ですと即答できるものでないことはたしかだから。 しかし、まず「はじめに断酒会ありき」は間違いないようである。それと添うようにあるのが家族の、特に母の存在と想いであろうか。 私が飲んでいる最中、母はどうにもならない気持ちをこう言葉に代えた。 「倫子、おかあちゃんが死んだらわかってくれるか、お酒やめてくれるか……」 私は母をまともに見ることができず、視線をずらして言った。 「おそらく、無理でしょうね」 飲んで醜態を晒(さら)している娘が情けなくて父が私を殴る、蹴る。その時、床に転がる私の上に母は覆い被さって叫んだ。 「頭だけは殴らなんでやって!」 「母と二人三脚、断酒会の中で他のことを何も考えず、夢中で歩いた一年があったからだと思います」と答えればもしかしたら、「倫子さんがお酒がやまった七不思議」の五つぐらいま では解明できるかもしれない。 母は私の断酒が軌道に乗りはじめた頃より、少しずつ体の不調と研修会を歩く辛さを訴えるようになり、それはとうとう椎間板ヘルニアを手術しなければならないという形になって現 れた。術後の経過もなかなか思うに任せず、先々を慮(おもんぱか)って悲観的になることもある。 私の飲酒が末期の頃、母は近くの温泉のホテルに布団たたみのアルバイトに出ていた。家にいてはろくなことを考えないから、人の中で体を動かしていた方が気持ちが紛(まぎ)れてい いとのことだった。それに、郵便物も年金の通知ぐらいしか舞い込むものもない年齢になっては、職種や職場を選ぶ余地もなかったのだろう。時間給で六百円、一日働いても三千六百円 。そして、私が断酒会に入ってお酒を断つ努力をはじめると、また布団たたみに出ると言い出した。 「これで、このお金でとにかく歩けるだけ歩こう、できるだけの研修会に参加しよう」と母は言った。「もう私たちには、この道しかないんだから」と。 本当に尊いお金だった。母は必死だったのだ。「何としてでも」という思い。いくら親不孝を重ねてきた私でも、この母の「思い」は身にしみた。 断酒会にどっぷり浸かり、お酒をやめることしか頭にない最初の一年だった。無我夢中で歩いた。私が所属する飯田断酒会の会長が、断酒継続と酒害からの回復には県外研修会参加は 欠かせない、という理念で会を引っ張ってくれ、今週は北陸、来週は関西と言われるままに出向いた。そしてただ研修会場に身を置き、体験談を聞き、機会が与えられれば話させてもら った。 これからどう生きようかなんて考える余裕もなかったし、考えてもはじまらないことを私は断酒会の例会・研修会歩きの中で教えてもらっていたから、“断酒”と夕食の用意以外何も していない自分だったが、不思議とそこに焦りはなかった。 「お酒をやめているだけでいいんだよ」両親をはじめ断酒会の会員さん、県外研修会で顔馴染みになった方々が声をそろえてそう言ってくれた。何もせず、お酒を飲まないでいるだけな のに、「頑張ってるね」「倫ちゃん、よう歩いとるな」「いい体験談だったよ」と声をかけてくれた。 私はその一年間に、頭で考えてもどうしても理解できなかった「仕事より断酒」の意味が、体でわかっていったような気がする。 生業だった塾が盛っていた時、飯田断酒会のある会員さんが私のお酒のことを聞き及んで、断酒と断酒会につながることを時間を割き心を砕いて話しに来てくださったことがあったが 、私は耳を貸そうとはしなかった。 断酒の“断”の字に怖(お)じ気づいたこともあったが、断酒会の例会が平日の午後七時からということで、そんな稼ぎ時のゴールデンタイムに、わけもわからない会に出る時間などな いというのが大きな理由だった。 自分にとって、何が大事なことかが少しもわかっていなかった。私にとって第一義でなければならないことが身についてないから、結局は総てを失うことになる。 断酒会に入って、ある先生の講話を聞いた時、なるほどと思った。 「一のことができていないうちに二のこと三のことをしようと思うから、ニッチモサッチモいかなくなるんです」 片手の酒のビンを離そうとせずに、もう片方の手で何を求めたって得られるはずもなく、たとえ一時は手にしても、両手でしっかりつかんでないから滑って落として壊してしまう。 特に私のような業(ごう)の強い飲み方をしてきた者が、大事なものをしっかりつかむには、一度両の手を空にしてからでないと駄目だったのだろう。だから私がお酒を飲むことをやめ ようとせず、結果として自分の生き甲斐とも思っていた塾の子どもたちと別れなければならなくなったのも自明の理であり、失って初めて両手が空になったから、私は蜘蛛の糸の断酒会 につかまることができたのだと思う。 しかし、断酒さえ続けていられれば、断酒色に塗り潰された何も描かれていないキャンバスにも、少しずつ自分なりの絵を描き直すことができる…… 断酒のための生活、例会と母のパートの収入を当てた週末の研修会歩きをしばらく続けた。私もおさんどんと精密機械部品の内職をして、一ヵ所でも多くの研修会を回ろうと努めてい た。 ある夜、朝食用のパンを買うためにコンビニに入るとレジで視線を感じた。振り向くとそこには、一年半前に不義理をした中学生の教え子の一人が立っていた。 「先生、飯田に帰ってきてたの……」と彼女。少し離れた書籍のコーナーでお母さんもこっちをご覧になっている。頭を深めに下げて会釈をする。 別れた時中学一年生だった彼女も、もう中学三年生になっていた。 「あの時はごめんね。きちんとみんなに説明もできないままに、急にやめちゃって」 「なあ、先生、もう塾やらんの?」と切ないことを聞いてくる。 「できっこないじゃん。あんなやめ方したんだもん。今、塾の帰り?」 隣の妹と顔を見合わせて、ためらいがちにこっくりした。 「もう中学三年生だもんね。先生、最後まで付き合えなかったけど、勉強頑張ってね」言ってるうちに自分の目頭が熱くなるのがわかった。 自分が飲みに走った挙句のこととはいえ、本当に辛かった。塾は自宅の敷地内に立っている十坪ほどのものだが、飯田にもどってからも私にとっては思い出が深すぎて、無念で足を踏 み入れるのもはばかられていた。 翌日の夕方、その子たちのお母さんから電話があった。聞けばあれから姉妹で話し合って、それまで通っていた塾を二人で勝手にやめてきてしまったという。 「先生のご都合も聞かずに申し訳ないんですけれど、うちの娘たちだけでも教えてもらえませんか」 慕ってくれた子どもたちを裏切り、故郷を踏みにじった最低の私だった。その私、もう二度と飯田になんかもどれないと思っていたのに、ふるさとは居ることを許してくれた。それだ けでなく、私の元でまた勉強したいという子がいてくれた。 「喜んで……」あとは声にならなかった。 程なくその子たちが前の仲間に声をかけ、みんなで連れだってきてくれた。諦めていたのに、卒業の感激を一緒に味わうことができた。彼女らへの贈る言葉は「ありがとう」だった。 それ以来、看板は下ろしたままであるが、兄ちゃんが以前に習ったとか従兄(いとこ)が昔世話になったなど、人づてで生徒が集まってきてくれて今に至っている。 今の会社は、私が断酒会に入って一年半経ってから勤め出した。塾は夕方からということで、昼間の時間ワープロの内職の仕事でもと話を聞きにいったつもりが、どこでどう間違えた か勤めることになってしまった。何でも屋の地元の小さな出版社である。本当に「何でも」やらせてくれるお蔭で、私はこの二年ほどの間に多いとは言えないが(社長、ごめんなさい) 有給で職業訓練校に通ったほど、いろんなことを教えてもらった気がする。 FAXなど一度も触ったこともなく、初めのうちは電話のベルにさえ怯(おび)えていた私が、今では他の人が嫌がるお金の催促までできるような厚顔さも備わった。 会社に入る時、塾のことと、もちろん自分がアルコール依存症であることは話し、断酒会の活動をしているのでそちらに支障のない業務に就かせてもらいたい旨はお願いした。社長は 「わかりました。無理だったらできませんと言ってくれればいいですから」などとニコニコ顔で言ったのに、「できません」とはとても言えないような状況ばかりだった。とは言っても 、お酒が原因で一つの会社に腰を落ち着けて働くことなど到底できなかった私だから、当てにしてくれるのは嬉しかった。そして気が付いたら、塾と勤めをしながら本業は断酒会の活動 ですという生活になっていた。 ときどき母が思い出したように言う。 「おまえがお腹の中にいる時に占ってもらったら、その人が『このお腹の中の子は大した子ですに』と言ったんだよ。小さい時は手のかからない大したいい子で、まあ随分長い間大した 酒飲みで散々心配させられて、もう大したことせんたっていいから、もうちっと静かに暮らさせてくれよ」 飲んでいる間も、やめる過程でも親を振り回している私には耳が痛かった。いずれにしても、私たちアルコール依存症者が回復の道をたどるなどということは、並大抵のことではない んだなあと今更ながらに思う。それ以前に入口さえ見つからず、右往左往している人がどれだけいることか。 アルコールに足をとられてはまっていく過程も様々であるが、回復への段階も幾つかあり、人によって時間を食う箇所はそれぞれであると思う。 まず、自分がアルコール依存症であることを認めるまで時間がかかる。次に認めるには認める、医者がそう言うんだからそうなんだろうとまでは認識するのだが、だから何故断酒しな くてはならないのかを理解するまでにまた時間がかかる。さらにぼつぼつ諦念して、酒をやめるしか自分には生きる道が残されていないことが分かり、断酒を志すのであるが、実際に断 酒が継続できるようになるまでがまた容易でない。 私はここでいうと、第二段階がとてつもなく長かったと思う。だからアルコール依存症の娘に酒を飲ませたくない親と、アルコール依存症であることは認めていても、それが生涯一滴 も酒を飲まないこと(断酒)とどうしてもつながらない娘は十七年間も泥試合を続けてしまった。「アルコール依存症だって、たまに精神病院の世話になったって、とりあえずこうして 生活ができているじゃないか」という世間では通用しない非常識を無理矢理ねじ曲げて自分の常識にしていたから、なかなか断酒の入口に立てなかった。 飲んだその尻拭いを親がしてくれていたお蔭で、病院からもどってもしばらくの間周囲に気まずい思いをするだけで、私の居場所はまだ世間にあった。親がいてくれなければ私の存在 は社会からとっくに抹殺されていて、最悪のケース、社会的だけでなくこの身自体もこの世にはなかったかもしれない。しかしそれを斜めに見ると、親の手助けがあったから、換言する と待っていれば必ず助けに来てくれる親がいたから、私が「お酒は人がやめさせてくれるものではない」という当り前のことに気付くのが遅れてしまったとも言える。何がよくて何が災 いしたのか、今となって断定的に言えるものは何もないが。 ただ、結果を抜きにして考えると、両親のとった行動はすべて私への愛情によるもので、二人で知恵を寄せ合って出した、その時点ではベストと思われるものだったんだろうなという ことだけは言えるし、私が断酒に至るまでの道程の様々なことは、私が必然的に身に負ってみなければならなかったことではなかろうかと思える。 では、第二段階がそうして時間がかかったから、そこで数々の回り道をした分だけ次の段階はまったく問題なく双六の駒を進めることができたかというとそうでもない。比較的スムー スとはいえるだろうが、それでも私は入会してから二回、お酒に手を出した。一回目は会につながって一ヵ月目、先輩の会員さんが再飲酒して、その方が両親がいない留守の間に訪ねて きて、飲もうじゃないか、と私の目の前に角ビンをドンと置いた。なんだか夢遊病者のように、催眠術にかかったように注がれたグラスにすっと手が出てしまった。 その時は飲んだらどうなるかなどという考えはなかった。その人のせいにするつもりもない。紛れもなくグラスから口へ酒を運んだのは私なのだから。その人が私の家にお酒を持ち込 まなくても、私はどこかで飲んでいたかもしれない。 ちょうどそこへ両親が外出先からもどってきて、二杯目を飲み干す前に御用となってしまった。今思い出しても呆れるのは、その御用となった瞬間、私の頭をかすめたこと。--どう せ見つかるのなら、もっとしっかり飲んでおけばよかった--この十分ほどの間に、それまで断酒に入っていた思考回路は、完全にスイッチが飲酒に入れ替わっていたのである。 ひと口でも飲んだらとまらないお酒であることを先刻承知の両親は、私をかつての定宿である飯田病院に連れて行った。家を出る前に「娘がお酒を飲みましたので入院させてください 」と連絡を入れてあったので、着いたらすでに私のベッドがしつらえてあった。こっちは一杯の水割りの酔いなど、スリップ騒動でどこかにいってしまっているのに、入院しなければな らないなんて……なんだか納得いかない。 たしかに飲んだのは私が悪いけれど、入院までさせなくたっていいじゃないか、そんなに騒ぐことだろうかと自分の再飲酒を棚に上げて、こんな元気な私を両親と組んで入院させよう とする南風原(はえばら)先生を恨めしく思った。失敗なんて誰にもあることだって、アメシストの先輩も言っていたじゃないかと口を尖らせた。 しかし、両親のショックは、それまで繰り返していた私の飲酒騒ぎの比ではなかったようだ。終(つい)の手だてとして断酒会にすがり、その中で精一杯のことをしようと家族で力を合 わせて動きだした矢先の私の再飲酒である。まだスリップという言葉を使えるほど、お酒をやめられていたわけでもないのにこんなことでは、この先いったいどうなるんだろうと暗澹た る思い。 仏頂面をして車のシートに座っている私に父はきっぱり言った。 「今回おまえが飲んだ酒はいままでとはわけが違うからな。(続きは本書で)