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描きかけの油絵
久里浜にて
「私はこんな人生を送るために生まれてきたはずじゃない」 泣きながらアスファルトの道を拳で叩いた。どこで生き方間違えて、何故こんな知らない町の片隅で膝を抱えて泣いてなきゃならないんだ。その元凶は手に持っている缶ビールである のは十分わかっているはずなのに、私はそれを捨てることができなかった。一口飲んだビールは胃の腑まで落ちずに食道を逆流し、噴水のように道路に吹き出した。涙と鼻水とビールで 顔がぐしゃぐしゃになる。 国立療養所久里浜病院を抜け出してからもう一週間にはなるだろうか。飲み続け、すでに私の体は酒を受け付けないくらいに弱ってきている。でも、何としてでも、一口でも一滴でも いいから、体にアルコールを入れないことには次の動作が起こせない。毒薬でも、その時の私には頓服の鎮痛剤だった。一週間先のことなんか考えられないし、明日のこともわからない 。ただ、今、目の前にある酒を体に入れることが先決だ。よくしたもので、一度噴水をすると、そのあとの酒はどうにか体に収まる。ビールが胃に落ち着くのがたしかめられると、ふっ と体中の神経と筋肉が弛む。これでどうにか今晩はもつ…… 私はその二週間前に二十八歳の誕生日を迎えたばかりだった。 二十一歳の時アルコール依存症という診断を受けてから道に迷い出した家族は、あらゆる情報に飛びついた。どこどこの精神病院がいいと聞けば、県外だろうとどこだろうと出掛けて いった。 長くアルコール依存症をやっていると、遅かれ早かれどこかで国立療養所久里浜病院の名前を聞くことになる。初めてその病院を訪れたのはたしか二十三歳の時だったと思う。両親と 三人で出向いた。ぼんやりと覚えているのは、診察室とは別の部屋でいろいろ面倒くさいことを聞かれたことと、患者らしき人が浜辺でジョギングをしている姿。それと、私と同じよう にその日初診にやってきた人のことだった。四十がらみの体格のいい男性だったが、スーツはくたびれていて、ワイシャツの首まわりが薄汚れていた。そのスーツがダブルだったのがみ じめたらしさを一層のものにしていた。しばらくすると、母がどこからか情報を仕入れてきた。看護婦とその人の会話を小耳に挿んだのだろうか、何を言うかと思ったら「びっくりした 。あの人、東大の経済学部を出てるんだって」 〈頭で考えてお酒を飲んでたら、誰もアル中になんかなるもんか……〉私はそう呟いて、フンと鼻で笑った。自分自身への嘲笑でもあった。 両親は別室でなにやら難しい話を医者から受けていたようだったが、その時は診察を受けただけで信州にもどった。 初めて久里浜で診てもらってからわずか四年ほどの間に私は箔が付いたアル中になっていて、輝かしい酒歴を重ね、立派な酒害をまわりに撒いていた。離婚も経験し、幾度となく家を 飛び出して飲みに走る。両親も次第に大胆になる私の飲んだ上での行動に策を講じきれなくなっていた。 夫婦しての会話といったら、娘のお酒をなんとかしなければということに終始しているようだった。そんな中でまた久里浜のことが話題に上がったのだろう、前に診てもらった時とは 病状も進んで状況も変わっているから、もう一度訪ねて今度はきっちり入院させてもらおうという算段になったに違いない。二度目の久里浜病院行きは、皮肉にも親から用意された二十 八回目の誕生日プレゼントとなった。 「おい、久里浜へ行くから入院の支度をしろ」私は急に言われ、しぶしぶボストンバッグに身の回りのものを詰め込んだ。入院の支度は慣れたものだ。 入院はいやだ。だけど、入院せずに私はこうしたいと思います、という考えも、嘘でも「もう決してお酒を飲みませんから」と言えるだけの両親への思いやりもなかったので、とりあ えずはその言に従うしかなかった。それに私が入院して、今の社会からしばらくいなくなったって、誰も困る人はいない。いなくなったことに気が付かない人ばかりかもしれない。唯一 気にかけてくれているといったら、飲んでは最後に立ち寄る飲み屋のおばちゃんぐらいのものである。飲んだ後始末を親に押しつけて病院に逃げ込んでばかりいるうちに、私は自分の人 生でありながら、「こうしたい」という発言権もなくなってしまった。そのかわり、「あんたらが引いたレールなんだから、私はいつ脱線するかもしれないし、それについての責任は負 わないからね」と脅迫めいたことをほのめかすことで帳尻を合わせようとしていた。 だから、久里浜行きも深くは考えていない。そこがどういう病院で何のためにということも私には大した問題ではなかった。アルコール依存症の治療のためのプログラムが組まれてい て、社会復帰を目指す療養所であろうが、家に置いておくと、いつなん時飛び出すかわからないからということで、簡単に表に出さないための措置を施すための病院であろうが、私には どうでもいいことであった。気になることと言えば入院生活上の待遇で、単純な話食事はいいかどうか、入浴は週に何回か、どこまで行動が拘束されるかというぐらいなものである。そ れに、久里浜病院が鉄格子がはまっていなくて、開放であるということを聞かされれば、嫌になったらいつでも出ていけばいいんだということで、気が楽だった。 母親を留守番に残し、父と二人で出かけた。暦は大寒だった。飯田を出る時、雪が舞いはじめた。 「倫子が生まれた朝は、起きたら大雪でなあ……」 父の胸に去来したものは何だったのだろう。 幼い頃、おもちゃ箱に放り込まているピンク色の壊れたオルゴールを見つけて、母にその由来を聞いたことがある。すると母が言うには「お父ちゃんもああ見えて変にロマンチストの ところがあってね。おまえが生まれた日にあのオルゴールを買ってきて、二十歳になったら渡すんだって、タンスの奥の引き出しに大事にしまっておいたんだけれど、おまえが二歳の時 に見つけ出してきて、おもちゃにして遊んで壊しちゃったんだよ。覚えてないだろうけれど」 小学校三年の時、母の実家に養子に入っていた父は縁組を解いて出て、住居も移した。それまで住み込みの従業員も居るような多所帯からお風呂もない長屋住まいとなったが、私はこ たつの四辺を両親と妹との四人家族で埋められる生活が嬉しかった。 一年に一度、夏休みは一泊の旅行に連れていってもらった。観光旅館に泊まっておいしいものを食べてというものでなく、ライトバンの後ろに毛布を積み込んでの質素なものだったが 、小学校四年生、霧ヶ峰では現地で夏休みの課題の砂絵を仕上げたり、昆虫採集をしたり。ニッコウキスゲがきれいだった。五年生、二昔前の長野県の子どもにとって海は水戸黄門の印 篭ぐらいの効き目があった。感激の江ノ島での初めての海水浴、水が塩っぱいのが不思議だった。公共の宿に泊まった熱海の夜にスマートボールに初挑戦した。 夏休みの課題研究は父の毎年の仕事だった。小学校四年は天竜川の支流の上流から下流までの水温調べ。気温・水温・地温の日格差(にちかくさ)も調べて折れ線グラフにした。五年は 稲をいろんな方法で栽培し、育ち具合を調べた。六年は天竜川の南アルプスから流れ出る支流と中央アルプスから流れ出る川の河原の石を調べることで山系の構造の違いを調べた。毎年 々々お盆を返上してのまとめは怒られながら泣きの作業だったが、休みが明けて模造紙を抱えて登校する時は鼻が高かった。 中学一年の終わりに学校で進路希望調査があった。私は両親に相談もせずに自分の頭にある高校を書き入れ、四年制大学進学を希望する欄にマルをつけて調査票をさっさと提出してし まった。そして事後承諾である。 その時両親が言った言葉「いいよ。家だって楽じゃないけど、おまえが勉強したいんだったら、(続きは本書で)