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12/3/28
書籍「社労士が見つけた(本当は怖い)解雇・退職・休職実務の失敗事例55」3/28発売しました。
11/12/21
書籍「税理士が見つけた!(本当は怖い)事業承継の失敗事例33」12/21発売しました。
11/11/2
書籍「税理士が見つけた!(本当は怖い)飲食業経理の失敗事例55」11/2発売しました。
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書籍「公認会計士が見つけた!(本当は怖い)グループ法人税務の失敗事例55」発売しました。

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描きかけの油絵

描きかけの油絵

そのカティサークはいつまでも私の部屋にあった。  大学二年、あこがれていたバドミントンの先輩がいて、誕生日のお祝いをさせてくださいと勇気を出して告白した。後輩の女の子の好意に少しは応えてあげようということなのだろう 、先輩はその申し出を受けてくれ、二人だけのバースディパーティが私の部屋で実現することになった。  先輩が大のお酒好きとの情報をキャッチした私は、少ない小遣いの中から精一杯のもてなしとして、洒落たラベルのウイスキーを買った。黄色い帆船が浮かんでいる深い緑色をしたボ トルで、それが「カティサーク」というスコッチウイスキーであることはずっと後になって知ることになる。結局私の想いは淡いあこがれに終わったけれど、先輩の半分飲み残したウイ スキーは十九歳の秋の思い出として、しばらくは私の四畳半のインテリアの一部になっていた。  そのウイスキーを自分で自分のために飲んだのは、それから半年も過ぎた頃だった。何を思って栓をひねったのかは覚えていないが。私は二十歳になっていた。そして、その時口にし た水とほとんど区別がつかぬほどの薄い薄い水割り二杯に、なんともいえない居心地よさを覚えたのである。  高校三年の卒業式当日のクラスの解散コンパで、初めてお酒を飲んだ。旧制中学の名残がある高校で、いっぱしの貸席を設けての酒宴には、担任はもちろん話のわかる国語教師も一升 ビンをぶら提げて現れた。私は初めて飲んだお酒で、もちろん自分の定量もわきまえておらず、大学の合格通知を受け取ったばかりの解放感も手伝って、ひどい二日酔いにたたられるよ うな飲み方をしてしまった。翌日は昼過ぎまで起き上がれず、すっかりお酒に対して臆病になり、大学の一、二年は飲み会があってもジュースで通してまわりをしらけさせる部類だった 。実際、父も自分の若い頃と照らして、「倫子もいい経験をした。これに懲りて、もう無茶な酒の飲み方はしなくなるだろう」と思ったという。  しかしこの四畳半で一人で飲んだカティサークは、私を異次元の妙なる空間にいざなってくれた。そこはふんわりした世界。こんないいものがあったんだと改めて思う。  その世界では、悲しいことがあれば自分を悲劇のヒロインに仕立てて思う存分泣くことができるし、嬉しいことがあればもうこの世は自分の思うまま。都会の生活で萎縮した私の心は 、アルコールが入るとのびやかに膨らむことを覚えてしまったのである。  というのも、田舎の高校では女一人、バドミントンで目いっぱいの自己主張をし、インターハイの全国大会にも出て、そこそこの注目度はあった私だったが、思う大学に入っても待っ ていたのはあり余る時間と都会での疎外感で、あこがれていた大学生活は、けっして私が思い描いていたほど楽しいものではなかったのである。  都会での点にしか過ぎない自分のあやふやさ、それはある意味気楽ではあったものの、同時に何とも言えないやりきれなさも感じていた。そんな乾いた心の土壌にアルコールは浸みて いった。  高校時代の私のモットーは「一所懸命」だった。自分は今、どこの土俵に上がって何と勝負しているのかが問題であり、自分のすべきことを一つ見極めることができていればそれで安 心していられた。だからそれまで女人禁制のバドミントン部に頼み込んで入部させてもらい、そこで「強くなる」という目標さえ立てばそれ以外のことは目に入ってこず、生活は極めて 単純明解になる。学業が不振になり、成績が落ちたって構わないし、友達は付き合う時間もないので特に必要としない。国語の授業中は机の下で放課後使う自分用のシャトルコックの修 理修繕(羽根の植え替え)をしたり、物理の授業中はノートの端っこに試合の運びをメモ書きして策を巡らしたり、それなりの教師の授業は、放課後のエネルギーを蓄えるために睡眠時 間に当てたり。もちろん授業の体育などで使う余分な体力などないから、なるべくさぼって気力も体力も放課後にとっておく。  そんな勢いで練習をこなし、そして自分なりの納得いく結果を出して佐賀県で行われた全国大会からもどってみると、三年の夏休みが終わっていた。  男子の中でとうとう最後まで女一人、文字通り汗と涙を流した体育館に立ち、自分自身に「よく頑張ったね」と言ってやる。「でも大学受験が終わるまでは、もうここにはラケットを 持ち込むことはないからね」と踵(きびす)を返して私は受験勉強を始めた。土俵は体育館から勉強机に替わった。  九月に受験に向けての勉強をスタートさせたばかりの時に受けた初めての校外模試の英語の偏差値は三十五だった。結果表に(印が付いて返ってきた時は、さすがに自分でも呆れて苦笑 が出たほどだ。  そこで考えた。今まで勉強らしい勉強をしてこなかった私で、ここまで出遅れている現実がある。どう策を講じたらいいのだろう。受験に必要なものが知力(学力)・精神力・体力・ 経済力だとすると、私には学力はないけれどバドミントンで培ってきた体力と精神力は人並み以上にあるはず。親はとりあえず経済的な応援はしてくれるというから、あとは学力を体力 ・精神力で補うような受験勉強に切り替えていくしかないと踏んだ。そして、私は母にまず宣言した。「これから受験が終わるまで、少し無茶なことをするかもしれないけど、黙って見 てて。私は私の方法でやるから、お母ちゃんたちは生活のペースを変えなくていいからね」  まず受験が終わるまでは布団で寝ないと決め、ベッドをたたんで部屋から追い出した。信州の冬は寒いが、我慢できるうちは足温器で暖をとり机に向かい、どうしても眠くなったら突 っ伏して眠る。寒さも厳しくなったらこたつで指先を切った手袋をはめて鉛筆を握った。睡魔の襲来を少しでも防ぐためにストーブは使えない。いよいよ我慢できなくなると座布団を二 枚並べて部屋の電灯は点けたまま仮眠する。一日何時間勉強したかなどは計れない。それこそ二宮尊徳よろしく歩きながら、入浴しながら、食事中も。頬はこけ、髪も抜け、生理は止ま った。まさしく寝食を忘れて身を削るようにして乗り切り、掌中に収めた合格切符だった。  そんな私が過去にいた。スポーツにしても勉強にしても、こうと思ったことにはどんな努力も惜しまず、持てるだけの意志力を発揮して「モノにする」強い人、しっかりした子という のが大学に入るまでの私への評価であったはず。自分でもそう思っていた。そして私は念願の東京の女子大生になれた。  ところが大学とは自分の目指す方向に向けた滑走路であるべきなのに、私は飛んでいく方向が定まらないままでいた。将来、こういう道に進みたいからそれなりの基礎なり専門なりの 知識や技術を身につけるのが大学であるだろうに、私の進学の目的は「少しでも偏差値の高い大学や学部に受かること」であったため、合格した時点で私の目的は完了してしまったよう なものだった。本来なら自分の将来に向けてのスタート地点となるはずの大学が、私にとってはただの苛酷な受験戦争の終結点に過ぎなかったのである。  興味をもって学問する気がないからなかなか次の目的がみつからない。受験勉強で「記憶する」訓練はできていたが、「思考する」ことが苦手な私は大学の授業もとんと分らず一コマ 九十分が苦痛だった。楽しいことは見つからないけれど、「生きること」に苦悩する程のインテリジェンスもなく、無為に過ぎていく学生生活。加えて、教室と体育館と家が行動範囲で バドミントンと受験勉強しかしたことのなかった私は、時間を自分で考えて使うことが身についておらず、途方に暮れた。最初は楽しかったデパートの探険にも飽きた。友達の作り方も わからず「うまく遊ぶ」こともできない。  そんな一所懸命の「所」が定まらない、なんとなく地に足が着かない状態の時に出会ったのがお酒だった。そこに自分の居場所を、心の拠り所を見つけたような気がした。  高いお金を出して外で飲んで騒いで享楽するわけでもなく、男性にただ酒をねだるわけでもない。一人でテレビを相手に飲み、テレビの放送時間が終了すると今度は深夜放送のディス クジョッキーがお酒の相手になってくれた。気が付くと東の空が白んでいる。あんなに持て余していた私の長い都会の夜をお酒はいとも簡単に埋めてくれたのである。  次第に私の一日は大学に通うことと、自分のためにささやかな酒宴を開くことだけを軸として回っていくようになり、キャンパスにいる時から考えることは、今日は何を酒の肴にして 一杯やろうかということで、当然のなりゆきとしてクラスメートとの付き合いも疎遠になった。喫茶店に誘われても「一杯二百五十円でコーヒーを飲むぐらいなら、そのお金でワインの 二百ミリリットルが買える」と、交際や食にかかるお金の額を、何でもお酒の対価と比べるようになっていった。お酒っていいなと薄い二杯の水割を口にしてからそんな考えに至るまで 、半年かからなかったことになる。  当時を思い返してたしかに言えるのは、アルコールは私にとって最初から神経を弛緩させるものでなく、覚醒させる役割の方が大きかったということである。量が過ぎればブラックア ウト状態から寝こけるのは誰でも同じだろうが、私はお酒が入ると妙に自分の感覚が鋭くなったような、研ぎ澄まされていくような気がして、特異な感性でめんめんと日記を綴っていた 。また、感情の起伏が大きくなった上で観るテレビの洋画劇場はしらふで観る時の数倍はおもしろく、些細なことで泣いたり笑ったりできる。急に思い立って部屋の模様替えをはじめて 朝を迎えたりもした。とにかく、お酒は私のくすんで停滞した心を一時でも活性化させてくれる、とても元気をくれるいい友達を装って私の前に出現したのである。どんどん仲は深くな った。  三年の夏休み田舎に帰省した時、すでに私は自分の部屋のベッドの下に寝酒用のウイスキーを忍ばせていて、それを切らすことはなかった。そしてその秋には、今日だけは飲まずにか からなければレポートが提出できない、試験勉強が間に合わないとわかっていても、「今日だけ」も飲まずにいることがもはやできなくなっている自分がいた。洋服を着たまま朝を迎え 、ウイスキーの減った量や判読できないミミズのような文字に愕然としたり、ストーブをつけっぱなしにしたまま眠ってしまって、温熱火傷を足に負うような粗相は頻繁になった。  自分の飲み方はまともじゃないと思いはじめたのもこの頃である。不安になり、本屋で『家庭の医学』などを立ち読みし、どうも自分がアルコールについては病的で心理的依存という 範疇に入っているらしいことは理解したのだが、「まだ身体的依存にはなっていない。量を適当にして、せめて一週間に一日でも二日でもお酒を飲まない休肝日をつくればいいんだ。飲 んでも構わないんだ」と、何としてでも「飲む」方向に都合よく解釈する努力をした。  ある日見たワイドショー番組で、司会者がスタジオ見学に来ていた女性たちにお酒についての質問をしていた。三十名程いた女性の中で、二名が毎晩の晩酌を欠かさないと手を挙げた 。その時私が思ったのは「二人しかいない」でなく「二人だけど、私と同じような飲み方をしている人がちゃんといるじゃないか」だった。そういったことが一事が万事で、自分の飲み 方を容認してくれる意見だけしか受け入れることができない。ただ、このスタジオの二人の女性と私が大きく違っていたことがある。それはおそらく、私がその場所にいても手を挙げな かっただろうということだ。  つまり、「お酒が好きで毎晩だって飲むんですよ」とあっけらかんと言えるようなものではなく(彼女たちが、その後もおいしいお酒を飲み続けることができたかどうかは定かでない が)もう罪の意識があり、飲酒は私にとって、すでに意識の中で隠さなければならない域のものになっていたのである。  思い返すとその時期を待たずして、飲みはじめた頃から隠す行為をしていたように思う。毎晩のお酒が自分の楽しみの範囲で、別に悪いことをしているわけじゃないと、自分では納得 して飲んでいるつもりでも、女の子が毎晩お酒を飲むなんてとんでもないことだ、という幼い頃から植え付けられた道徳観に背いている自分であることもわかっている。そんな自己矛盾 から無意識に隠してしまうのかもしれない。飲み会でも決して他の女性との足並みを崩すことのないピッチで飲み、飲み足らない分は、トイレでバッグに忍ばせて持ち込んだウイスキー のポケットビンで調節しなければ飲んだ気がしなかった。 「あたしって酒豪でしょ」と明るく笑えたら事態は違っていただろうか……  いよいよ私は、自分の飲酒に対して不安な気持ちを抱えながらも一日として飲まない日はなくなり、妹が上京して短大に入り、二人の生活がはじまると一気に昼間から飲む酒になった 。妹は潔癖で酒の臭いを嫌う。私も自分の酒が嗜(たしな)むなどという可愛いものではないことは十分自覚していて、実際罪の意識さえ感じるようになっていたので、「女がお酒飲んで 何が悪いの」と開き直ることができない。自分がもうその「悪い酒」であることは十分承知していたから。結局、妹の目の前で飲むわけにいかないので、彼女が学校に出掛けた留守の昼 酒、ばれて当り前の隠し酒となる。なまじ三年までまじめに出席日数だけは稼いでいたので、ほとんどの単位は取れていて、四年になると週に二日、大学に行けばいいという状況が酒へ の依存に拍車をかけた。  妹からの連絡で両親は私の酒が異常であることを知った。そして夏休みに帰省した時に連れて行かれた精神神経科病院の入院が、私の四十回を下らない入院遍歴の振り出しとなる。  入院中のことはほとんど覚えていない。食べて寝ていただけだったと思う。鍵のかかる病院だったからたしかに酒は切れたが、それ以外は何のためにもならない入院だった。一ヵ月近 く入っていても、診察らしい診察はなく「アルコール依存症」という病名を医者からきちんと聞いた覚えもない。  だからというわけでもないが、退院して東京にもどり後期の授業に臨んでも飲酒は進むばかりだった。一日平均ボトルを一本ずつ空けた。お金もないのでもっぱら焼酎だった。味など 関係なくジュースや牛乳で割って、ただ酔うためだけに体に流し込んだ。  両親はうさんくさい催眠療法とやらに連れて行き、私のお酒をやめさようと大金も使ったが、もう誰にも私のお酒をとめることができなくなっていた。離脱症状としての手の震えを初 めて経験し、卒論は家族総出で清書しての提出だった。手足は削(そ)げるようにやせ細り、顔ばかりが浮腫(むく)むというより、ぱんぱんに膨(ふく)らんだ。そしてなんとか卒業はした ものの、卒業式にも謝恩会にも出られず再入院のための帰郷となる。  四年間に増えた荷物をトラックに積み込みながら父が言った言葉、 「倫子、都落ちだなあ」  自力で道を切り開いて人生を歩んでいける子だと信じて疑わない両親だったのに、自分たちの生活を切り詰めて仕送りを続け、蓋を開けてみればわが子は一人前のアル中になっていた 現実。四年前、桜の舞う中、合格者掲示板に受験番号を見つけて父娘で小躍りして喜び、手にした大学生活はいったい何だったんだろう。(続きは本書で)

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